○○クリニック
             展示 東日本大震災直後の南三陸町の様子
              ―2011年文化祭展示物より― 


           展示 東日本大震災義援金募金

 

 

2011年の文化祭で、3月の震災から3か月間のことを展示し、募金を行いました。
東日本大震災の直後、自分達に何かできることはないかと考え、生徒会といっしょに義援金を集めることにしました。そこで、3月14日から3日間、鈴蘭台駅前で募金を集めました。校内でも募金期間を設け、早朝にピロティーで生徒の皆さんの善意を集めてきました。入学式では、保護者の皆様にもご協力をいただき、多くの支援をいただきました。本当にありがとうございました。

本校で集めた義援金は、「兵庫EARTH」のメンバーでもある浅堀先生と代表生徒で、直接現地に届けに行こうと考えてきました。お互いに顔の見える支援と交流を目指してきました。

 

 


震災直後に本校浅堀先生が「兵庫
EARTH」の先遣隊として、宮城県南三陸町を視察した時の写真を展示します。以降、現地の写真はすべて、2011年年3月17日のものです。

 

   

現地ではカセットボンベを必要としているだろうと、関西で買って被災地に届けようホームセンターを探したのですが、品切ればかりで、手に入れることができなかったそうです。

 


南三陸町にガソリンはなく、車で行くと帰れない状況。周辺の地域もガソリンの購入制限がありました。(新潟は20リットル、山形は10リットル)
浅堀先生は予備のタンクにガソリンを入れて、現地に入りました。

 


南三陸町の役場では、3
Fや屋上に避難しても流されました。

 


手すりに捕まった町長は奇跡的に助かり、職員は20名しか残らなかったということです。(3月17日現在)

 


南三陸町や陸前高田市などリアス式の湾では、津波が増幅して壊滅的な被害が出たと言われていますが、そのことは写真を見てもよくわかります。

 


南三陸町の中心では、ほとんどの家屋が津波の被害を受けました。

残された家さえも、無残な状態です。

 


町の中心にある病院の建物だけが、
残されて目立っているという感じです。

   その病院も、最上階の4Fでさえ、寝ている患者(横たわって立てない患  者)は水にのまれ、立てる人でないと助からなかったという話です。

 


3階の建物の屋上に、車が残されていました。

 


津波は川をさかのぼるので、川沿いの地域では内陸部まで被害は大きいです

 

  
震災では、電気・ガス・水道のライフラインが閉ざされました。東北地方の3月はかなり寒く、ガソリンだけでなく、石油ストーブ・燃料・毛布・照明(ろうそく 懐中電灯)が不足していた頃です。

 

 
震災で、志津川小学校・志津川中学校・志津川高校など、学校が避難所になりました。浅堀先生は、小学校と中学校を視察しました。

   志津川小学校では、300人の被災者がいました。児童も1人犠牲になっ  ているという話を聞きました。(3月17日現在)

 


志津川中学校では、688人の被災者がいました。教室が避難所になっていました。(3月17日現在)

 


初期の避難所で最も大切なことは、安否確認です。携帯電話が使えない現状の中、ボードに貼られた手書きの紙が、情報伝達手段となっていました。

 


食糧や生活用品の不足と、情報の不足が被災者を不安にさせます。

必要な物資と情報が、いかに早く現場に届けられるか、大きな課題です。

 


自衛隊の救援物資の搬送。震災では自衛隊が一時10万人体制で救助・救援にあたりました。

 

  
  私達福祉活動部の中には、当時今すぐ東北まで行きたいという意見も出  たほどですが
今、私達はこんな風に考えて活動をおこなっています。

 

 

必ずしも現地でボランティア活動ができなくても、より安全で安心な生活ができる助け合いの社会を目指して、毎日の生活をていねいに送ることが第一だと考えています。みんながそれぞれの場所で、すぐ身近かにいる人にやさしく接することを、基本にしていきたいと思います。

 

文化祭では、たくさんの方に募金をしていただきました。

本当にありがとうございました。

義援金は、2011年7月16日〜18日、南三陸町志津川中学校に届け、現地ボランティアを行いました。

  南三陸町震災ボランティアのページもご覧ください。